"007"はただの番号か? ~『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』

※映画本編の結末について語っていますというか、それを語りたいので

 

『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(以下『NTTD』)が公開されて初日に観に行ったのだが、そこで描かれていたのは"ボンドの死"であった。

 

ダニエル・クレイグ新しい007=ジェイームズ・ボンドとして登場したのが2006年。今までにないボンド像を描いたシリーズとしてこれまで4作が作られたが、連作というスタイルでボンド像を作り上げていったというもの。

 

カジノ・ロワイヤル』で新しい007となったボンドの姿と、愛した女性の死を。


慰めの報酬』で復讐に拘るボンドの姿と、大きな敵の存在を。

 

スカイフォール』でボンドの過去と、主要キャラクターであるMの死と別れを。

 

『スペクター』で最大の敵の登場と共に、その首領であるブロフェルドとの兄弟としての関係があった事、そして敵であるホワイトの娘のマドレーヌとの愛を。


この4作を通じ、これまではあまり表立って物語の軸として語られなかったジェームズ・ボンドという男のキャラクターが見えてくる中で、『スペクター』のラストではブロフェルドにとどめを刺さずにマドレーヌと去るボンドで締めくくりは、やや歯切れの悪いラストだったという印象は持っていた。

 

それ故に続きがある事は期待していたわけだが、愛する女性との道を選んだボンドの先に何があるの?…とは想像したが、その結末の一つとして"死"は想定していた。それが当たったのは嬉しいやら寂しいやら。
ただ、マドレーヌとの間に生まれた娘の存在というのは全く想像していなかった。それ故に『NTTD』での娘との関わりを見て、このシリーズは"007ではなくジェームズ・ボンドの物語だったのだ"と痛感するわけで。

『NTTD』の冒頭は、お馴染みのガンバレルシークエンスに続いたのはマドレーヌの過去であり、今回の敵となるサフィンとの因縁から始まるという違和感。その違和感が今回のドラマを作っていったという印象が。

 

いわゆる007の映画ではなく、マドレーヌという愛する女性とその間に生まれた娘という軸を持たせる事で、徹底的にジェームズ・ボンドというキャラクターを、これまで描いてきた延長として考えているというのは判る。

プレイボーイ的な印象を捨てて一人の女性を愛して娘もいる、そんな孤高のヒーローではなくなったボンドを描いたシリーズの結末を"死"とする選択肢は納得はするし、嫌いではないというのが感想。サフィンに仕掛けられた毒に寄って、普通に戻れないという状況に陥っての決断でもあるし。

前作に続いてになるが、ボンドのスキルだけでなくチーム戦としての展開も人間味を感じさせる為の準備であったのだろうか。
ただ、007の死はシリーズとしての最大の禁じ手とも言える展開だけに、古くからのファンには反発もあるだろうなとは思うが、よくやったものだという感覚はある。

 

そんなハードなドラマの一方で、仕掛けとしてクラシカルなシリーズの印象も醸し出してるのがなんとも。DNAで殺す相手を調整できる兵器としてのウィルスに、折り畳みで潜水艦にもなるグライダー、サフィンの要塞の大掛かりさや毒の池といったところで。

そんなものだから、あれだけのミサイルでの爆風の中にいたとしても、最後のMやマネーペニー達の追悼の場にひょっこりと顔を出すんじゃないかとという期待をしてしまったのは仕方が無いか。

 

『NTTD』の途中で後任の007とあってボンドが言う台詞。

「(007は)ただの番号だ」

もしかしたら、今回のクレイグ版007はその台詞が示す様に007ではなく、あくまでもジェームズ・ボンドの物語だった…という意図はあったのかもしれない。

 

 

さて、そんな風に終わったドラマのエンドロール後に、いつもの"JAMES BOND WILL RETURN"が。
そうすると、「MやQは続投するの?」とか疑問と共に、期待と楽しみが湧き上がってくるというもので。ただ、次の007…ジェームズ・ボンドは死なないで欲しいなぁと素直に思ってはしまう。